「恐怖とは、破壊的なあるいは苦痛を伴う危険が差し迫っていると想像することにより生じる、一種の苦痛もしくは心の動揺であるとせよ」とアリストテレスが言葉を残している。
恐怖とは、なんらかの方法で活性化する必要のある感情の警報であることが分かったが、ほとんどの場合、危険を知らせるのは知覚的手がかりである。ところが、ここで別の問題が生じる。空想は恐怖を引き起こす引き金となりえるのか、もしそうなら、私たちの感じる恐怖が果たした現実のものならどうなるかを確実に知ることは可能なのか。もちろん、恐ろしいと感じることは現実だが、その恐怖は現実か。私たちはお互いどんなに似ていようとも、何が怖いのかという評価基準は一人ひとり特有のものである。私が怖いと思うものは、あなたも怖いかもしれないし、そうでないかもしれない。誰の感じ方がより正確で、より価値があるのかを問題にしているではなく、私たち個々人の恐怖は主観的に異なるものだと言いたい。私たちに共通する恐怖も数多くあるが、こうした恐怖「経験」は、私たち一人ひとりに固有のもの、すなわちアリストテレスの言う「想像」で満たされているように思える。そうであれば、脅威を評価するとは、客観的現実の内面化ではなく、知覚による経験と個人的な想像で色づけたものと合成物である。